トトメス3世のオベリスク (別称:テオドシウスのオベリスク)
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大きな地図で見る はトラム駅を表す記号です
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所在地: | トルコ、イスタンブール、スルタンアフメト公園 北緯41°00′21.3″(41.005922) 東経28°58′31.4″(28.975384) |
創建王: | トトメス3世(新王国第18王朝、在位 紀元前15世紀) |
高さ: | オベリスクのみ 19.6 メートル 台座を含め 25.6 メートル |
重さ: | 不詳 |
石材: | 赤色花崗岩 |
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行き方: スルタンアフメト公園はスルタンアフメト・モスク(ブルー・モスク)の北から西側に広がる公園です。トラム(T1線)のスルタンアフメト駅で降りますと、南側が公園になっていて、公園の先の南東方向にブルー・モスクが見えますので、公園に入ってブルーモスクの方向に向かいます。公園の中を道なりに進むと野外音楽堂のようなものに向かいますが、野外音楽堂の方向には行かずに東側の道を選ぶと、間もなく南西側に広がるスルタンアフメト公園に着きます。スルタンアフメト公園の南西方向の奥に2本のオベリスクが見えます。トラムのスルタンアフメト駅からオベリスクまでの距離は約 200 mです。
場所について: オベリスクの立っている辺りは長方形の広場で、ローマ帝国時代にはチャリオット(2頭だての戦車)のレースが行われた円形競技場(ヒッポドローム)があった関係で、この場所はヒッポドロームと呼ばれています。また、トルコ語で馬の広場を意味するアト・メイダヌとも呼ばれています。
スルタンアフメト地区はイスタンブールの観光の中心で、ヒッポドローム(アト・メイダヌ)の他にも、ブルー・モスク、地下宮殿、アヤ・ソフィア寺院、トプカプ宮殿などの名所が集中しています。それらは一括して、1985年に「イスタンブール歴史地区」として世界遺産に登録されました。
ヒッポドロームは 203年にセプティミウス・セウェルス皇帝が建設したものを、コンスタンティヌス1世が4世紀に拡張したものです。おそらくその時に円形競技場の中央にオベリスクを建てる構想があったのだと思いますが、コンスタンティヌス1世の生存中にはオベリスクの建設は実現せず、ユリアヌス皇帝によってアレキサンドリアから搬出され、テオドシウス1世によって現在の場所に場所に建てられました。
なお、このヒッポドロームにはトトメス3世のオベリスクの他に「コンスタンチヌス7世の柱」という石の塔が立っています。
「コンスタンチヌス7世の柱」は 10 世紀にビザンチンの皇帝コンスタンチヌス7世が建てたもので、こちらは古代オベスクではありません。この塔はブロックを積み上げたもので、Walled Obelisk と呼ばれています。碑文はありません。
コンスタンチヌス7世の柱
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英文の Wikipedia の Walled Obelisk の項目には、2007年に撮影された写真が掲載されていますが、ブロックの損傷がかなり激しく痛々しい姿になっています。しかし 2014年に訪れたときには、損傷した石材が新たなものに交換されて、すっかり綺麗になっていました。
オベリスクについて: このオベリスクは東ローマ帝国のテオドシウス1世(在位 379-395年)が建てたので「テオドシウスのオベリスク」とも呼ばれていますが、元々は新王国時代第18王朝のトトメス3世(在位 BC 1504-1450年)が古代テーベ(現ルクソール)、カルナックのアメン大神殿の第7塔門の南に2本建てたもののうちの1本です。
アメン大神殿にはこのオベリスクが奉納されたときに記録されたレリーフが残っていて、2本のオベリスクの正面のほぼ全文が判明しています。そのレリーフとイスタンブールに残っているオベリスクの碑文を比較すると、オベリスクの下側の約1/3が失われていることが分かるとのことです。
現存するオベリスクの高さは 19.6mであるため、アメン大神殿に立っていた頃の元の高さは 30メートル,400トン程度と推定され、非常に大型のオベリスクだたことになります。現存する世界最大のオベリスクは高さが 32.18mのトトメス4世のオベリスクですから、これに次ぐ高さであったことになります。
アメン大神殿に残っている他の1本のオベリスクの破片と、アメン大神殿に残っているレリーフでは、アメン・ラー神の名前が消されています。アメン神の名前を消させたのは、信仰の対象をアメン神からアテン神へ変える宗教改革をしたアクエンアテン王(イクナトン、アメンホテプ4世)(在位 BC 1350-1334年)です。このオベリスクでもアメン神の名前などが消されている面があるのですが、北東面のピラミディオンの部分はレリーフが削り取られておらず、損傷も少ないので、トトメス3世がアメン神に貢物を捧げる図が鮮明に残っています。このことから、このオベリスクはアクエンアテン王の宗教改革の頃には既に倒れていたものと考えられています。おそらく現在の北東の面を下側にして横たわっていたものと思います。また、このオベリスクが倒れていなかったら、ラムセス2世によって碑文が追加されるのを免れることはなかったでしょう。
このオベリスクの碑文は4面ともに非常にきれいに残っていて、書体も端正で美しいです。トトメス3世のホルス名と即位名が読み取れますが、誕生名は記載されていません。また、ホルス名と即位名の表記法が4面ですべて異なっている点がユニークです。
さて、カルナックのアメン大神殿からこのオベリスクをいつ誰が運び出したかわかっていません。
4世紀,ビザンチン帝国の皇帝コンスタンティウス2世(在位 337-361年。一字違いで、いまラテラン・オベリスクと呼ばれているオベリスクをローマに運んだコンスタンティヌス2世とは別人です)の命令でこのオベリスクは一旦アレキサンドリアに運ばれましたが、最終的には皇帝テオドシウス1世(在位 379-395年)の命令でコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に運ばれ、390年ここに立てられました。
しかし、運搬の途中に二つ(か三つ)に折れたらしく、現在見られるのは上の部分(長さ 19.6m)だけです。下半分もかつてはイスタンブールに立っていたと言い伝えられているのですが、いまは行方がわかりません。何かの建築材料に転用されてしまったものと思われます。
このオベリスクは 390年に建てられて以来、ずっとここに立っています。13世紀初め、第4次十字軍がコンスタンチノープルを攻め、文化的財産は破壊・強奪されました。例えば、そのときヒッポドロームにあった「四頭の馬の像」も奪われましたが、オベリスクは大きすぎて運び出せず無事に残りました。奪われた「四頭の馬の像」はいまヴェネチア・サンマルコ寺院の2階正面に飾られています。(実物は屋内に仕舞われ、いま見られるのはそのレプリカです。)
また、15世紀にはトルコ軍によってコンスタンチノープルが陥落し、ビザンチン帝国が滅ぶという大事件がありましたが、このときもオベリスクは無事でした。
台座のレリーフ 北西面 |
余談ですが、ビザンチン帝国はこのときオスマン帝国となり、コンスタンチノープルはイスタンブールと改名されました。
オスマン帝国は20世紀まで続き、1922年にいまのトルコ共和国となったのです。
台座について: オベリスクは4面にレリーフの施された大理石の台座の上に立っています(右の写真)。
この台座は,このオベリスクがここに立てられたときにテオドシウス1世の命令で作られたもので、4世紀後半のものです。
レリーフには、テオドシウス1世とそのファミリーや側近がヒッポドロームにおけるレースを観戦しているところや、オベリスクがどのように立てられたかの話が立体的に描かれています。
レリーフの他にラテン語やギリシャ語の碑文などがあります。それについては Wikipedia 英語版ですが Obelisk of Theodosius のページがかなり充実していて、多くの写真も掲載されています。
撮影メモ: スルタン・アフメト地区は多くの観光名所が集中しているのでいつも観光客で賑わっています。このオベリスクにも団体の観光客が訪れていて、写真撮影は少し苦労しました。
北東面 |
南東面 |
南西面 |
北西面 |
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2014年8月16日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます) |
共同著作・編集: 長瀬博之 nag2jp@ gmail.com、岡本正二 shoji_okamoto31@yahoo.co.jp