聚楽第の目次ページに戻る | |
4.聚楽第の形容表現ページに進む |
聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)は安土桃山時代に当時の最高権力者
竣工8年後以降、痕跡を留めないよう完全に取り壊されてしまいましたので、地上には何一つ残っていません。従って遺構は数少なく、また記録も少ないのでどんなものだったのかは想像するしかないのが実情です。
クリックすると別ウインドウで地図を拡大して見られます。 |
これといった遺構が残っていないため、いま現地を歩いても、聚楽第がどの辺にあったか全く分かりません。そこでいま、聚楽第を取り囲む濠があったことを示す石碑が4基建っています。
■ 西濠跡 中立売通裏門角 =右の地図 1 の の地点に建っています。
碑文は正面(北向き)に『此附近 聚楽第址』、 右側面(西向き)に『大正四年十一月建之 京都市教育会』、 左側面(東向き)に『寄附者 上京第十一学区内有志者』と彫られています。
この石碑は碑文にあるように、今から100年以上前の1915年(大正4年)に京都市教育会という団体が建てたもので、”聚楽第”といえばこの石碑に言及されます。なお、京都市教育会は1903年(明治36年)から敗戦頃まで存在した団体で、いまの教育委員会とは完全に別のものです。歴史地理史学者の中村武生氏の研究によりますと、京都市教育会は80基ほどの石碑(史蹟碑)を京都市内に建てたそうで、これはそのうちの1基です。
■ 東濠跡 この石碑は、上記の石碑の東約300メートル、聚楽第本丸の東濠跡に建っています。=上の地図 2 の の地点で、ハローワーク(京都西陣公共職業安定所)の向かい側です。
碑文は正面(南向き)に『聚楽第址』、側面(東向き)に『此附近大内裏及聚楽第東濠跡』と彫られています。
大内裏(だいだいり)とは天皇のお住まいをはじめ政務や儀式を行う建物群の総称で、いまの東京・皇居と霞ヶ関一帯のような感じでしょうか。平安時代には大内裏があり、この辺りは大内裏の北東辺でした。また聚楽第東濠とは文字どおり聚楽第の東側の濠(ほり、堀)です。
1991年(平成3年)この付近の濠跡から金箔を貼った瓦など、壊れた瓦が600点ほど出土し、聚楽第のものとされました。聚楽第を取り壊したときに割れた瓦を捨てて埋めたものと思われます。濠跡は窪んでいるので、廃棄物の処理に都合がよかったのでしょう。それらの瓦は一括して2002年(平成14年)に国の重要文化財に指定されました。=写真下・右
この石碑はそんな貴重なものが出土した地点を示すものです。
■ 南外濠
智恵光院通出水下ル西入ル南側、
ここには南に向って下り坂になっており、聚楽第の濠跡を示す好例とされてきましたが、最近では「
京都市歴史資料館が作成した「いしぶみデータベース」ではこのように紹介されています。(© 京都市)
また、聚楽第研究家・真田勘兵衛氏の「聚楽第観光案内」ではこのように紹介されています。(© 真田勘兵衛氏)
■ 聚楽城
鵲(かささぎ)橋というのは、聚楽第南二ノ丸南濠に架かっていた橋との伝承があります。
京都市歴史資料館が作成した「いしぶみデータベース」ではこのように紹介されています。(© 京都市)
また、聚楽第研究家・真田勘兵衛氏の「聚楽第観光案内」ではこのように紹介されています。(© 真田勘兵衛氏)
著作・編集:
E-mail: shoji_okamoto31@yahoo.co.jp