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聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)は安土桃山時代に当時の最高権力者
竣工8年後以降、痕跡を留めないよう完全に取り壊されてしまいましたので、地上には何一つ残っていません。従って遺構は数少なく、また記録も少ないのでどんなものだったのかは想像するしかないのが実情です。
「じゅらくだい」か「じゅらくてい」か: これまで「じゅらくだい」と読むのが一般的でした。
地元ではいまでもほとんどの人が「じゅらくだい」と呼んでいます。
しかし、最近では「じゅらくてい」という呼び方が有力になってきています。
とはいっても、「じゅらくだい」が間違いとは言いきれませんので、どちらでもいいです。
「じゅらくてい」説(1): 中村博司氏(大阪城天守閣前館長)。
天正16年(1588年)4月14日〜18日に後陽成天皇が聚楽第に行幸されたときの記録が『聚楽行幸記』として残されています。その原本と目される、巻末に豊臣秀吉の朱印を据えた大阪城天守閣本『聚楽行幸記』(奥付の「天正十六年五月吉日記之 朱印」に成立した記録)には漢字で、
敬白起請文事
一就今度聚楽第 行幸被仰出之趣誠以難有催感涙事
と書かれています。
一方、これを原本の一つとして成立した第1種『天正記』(慶長元和古活字本、1598〜1624年頃成立)巻六の『聚楽行幸記』には、
うやまって申 きしやう
一今度じゅらくていに付て きゃうかう 仰つけられるの趣、誠以てありかたくかん涙の事をもよおす
とあって、両者の対応関係からいえば「第」=「てい」であり、ここでは「聚楽第」を「じゅらくてい」と読んでいることが分かります(「だい」は呉音。「てい」は漢音)。
出典:≪聚楽城(聚楽第)はなぜ大事か≫を考える市民講演会。第2回講演要旨(2013.3.30、京都市上京区「聚楽会館」で開催)
「じゅらくてい」説(2): 桑田忠親氏。
聚楽第は、当時の古記録には、みな、「聚楽亭」と書いているから、これを「じゅらくだい」と読むのは間違っている。『石山本願寺日記』だけが、「第」の字を宛名として用いており、あとはみな、「亭」の字を使っているから、「てい」と読むのが正しい。
(中略)
「第」の字を書いたのは、群書類従本の『聚楽行幸記』と『石山本願寺日記』だけであることを、もう一度、主張したい。要するに「じゅらくだい」は誤読なのである。
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E-mail: shoji_okamoto31@yahoo.co.jp