アメン大神殿のオベリスク (3本) オベリスク全リストへ戻る

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現在地:  エジプト、カルナック
北緯
25°43′06.2″(25.718390) 東経32°39′29.8″(32.658280)

行き方: カルナックのアメン大神殿はルクソール駅の北東約3kmのところにあります。ルクソール市内のホテルの多くはルクソール駅の近くにありますから、アメン大神殿に歩いていくのはかなり厳しいでしょう。ルクソール市内にはバスなどの公共交通はありませんので、個人旅行者はタクシーか観光客用の馬車で神殿に向かうことになります。
 2008年にルクソールを訪れた時には、まだ革命の前でしたので多くの観光客で賑わっていて、レンタル自転車屋もありましたから、筆者は自転車でアメン大神殿まで行ったことがあります。しかし、2014年に再訪した時には観光客はごくわずかで、レンタル自転車も見当たりませんでした。
 観光客がほとんど居ないにもかかわらず、観光客目当ての馬車やタクシーは以前と同様に客待ちをしていますから、ホテルを一歩出た途端に客引きに声をかけられると思います。馬車だとアメン大神殿で帰りを待たせても相場の料金は20EGPくらいでしょう。20EGPは日本円では約300円ですが、エジプトの物価からすると法外に高い外国人料金です。なお、炎天下を歩いて行くよりはマシでしょうが、馬車は涼しくもないですし、馬の匂いがするので快適な乗り物とはいえません。

場所について: カルナックの神殿は大小さまざまな神殿や祠などが集まった巨大な複合体です。その中心的な存在がアメン大神殿です。1979年に「古代都市テーベとその墓地遺跡」の史跡のひとつとして世界遺産に登録されています。カルナックの神殿複合体には他にもムゥトの神域やモンチュの神域があるのですが公開されていません。
 アメン大神殿は中王国時代第12王朝のセンウセレト1世の頃から建設が始まり、特に新王国時代の第18王朝と第19王朝の頃には増改築が繰り返されました。今は閉鎖されていますが、他にも3方向からの参道があり、特に今の参道とは逆方向の東側の入口にもかつてはオベリスクが建てられていました。
karnak.jpg  右図はアメン大神殿の地図で、方角は下が西になります。入場ゲートを入るとすぐに右側にセティ2世のオベリスクがあります。太さの割りに高さが低いのでずんぐした形のオベリスクです。目の前には第1塔門がそびえたち、スフィンクス参道が続いているので、大半の観光客はそれらの光景に目を奪われ、セティ2世のオベリスクにはほとんど興味を持たずに奥に進んでいきます。セティ2世のオベリスクはスフィンクス参道の入口に左右ペアで建てられましたが、向かって左側のオベリスクは失われています。このオベリスクが建っている場所はかつてはナイル川から引かれた運河の船着場でした。
 第1塔門はアメン大神殿の西側の門です。末期王朝のネクタネボ1世の頃に建てられたものと考えられていますが、未完成で碑文も無ければレリーフも彫られていません。
 第1中庭にはセティ2世の神殿があり、南側にはラムセス3世の神殿があります。第2塔門の手前には右側にラムセス2世の巨像があります。左側にもラムセス2世の像があって向き合っていたはずなのですが、左側の像はなくなっています。かわりに左側には腕を組んだパネジェムの巨像があります。パネジェムの巨像は本来はラムセス2世の像でしたが、第21王朝のパネジェム1世が名前を書き換えてしまったのです。この像は第2塔門の下に埋まっていたものを修復して建て直したものです。
 ホルエムヘブが建てた第2塔門を入るとセティ1世が建てた大列柱室があります。名前の通りの巨大で太い134本の石柱が林立しています。柱の頭部は開花したパピルスの形をしており、開花式パピルス柱と言います。レリーフがくっきりと残っているほか、わずかに塗料が残っているものもあり、かつてはレリーフを含めて華やかに彩られていたことが伺われます。この大列柱室は本当にスケールが大きくて圧倒されます。
 トトメス1世のオベリスクは、第1塔門に入る前から遠くに小さく見えてはいるのですが、大列柱室を奥に進むにつれて、その存在感を増してきます。アメンホテプ3世が築いた第3塔門の手前あたりからは、奥のハトシェプスト女王のオベリスクも上部が見えてくるので、2本のオベリスクがならんで視野に入ります。トトメス1世のオベリスクは第3塔門と第4塔門の間に右側だけが残っていて、左側のオベリスクは壊れて台座しか残っていません。
karnak_hatshepsut_south4.jpg ハトシェプスト女王のオベリスクは、トトメス1世が作った第4塔門の先の左側にあります。オベリスクの周囲はかつては壁で囲まれていたことがわかります。この壁はハトシェプスト女王のオベリスクを隠す目的で、ハトシェプスト女王の死後にトトメス3世が築いたものです。トトメス3世は幼ないときにハトシェプストに王の座を奪われ、女王の死後に復位したのですが、ハトシェプスト女王への恨みを晴らすために、女王の記録の抹消と破壊に専念しました。壁でオベリスクを覆ったのもその一環です。ハトシェプスト女王のオベリスクは右側にも立てられ、やはりトトメス3世によって壁が築かれましたが、今では倒れていて上部の断片が聖なる池の近くに置かれています。
 続く第5塔門もトトメス1世によって作られました。したがってハトシェプストは父のトトメス1世が築いた第4塔門と第5塔門の間に、自分のオベリスクを建てたことになります。第5塔門の東側には小さな列柱室がありトトメス3世が作った第6塔門があります。第6塔門を過ぎると狭い中庭を経て大神殿の中心である至聖所に至ります。
 至聖所の裏側(東側)は中王国時代の神殿の遺構の広場があり、その東側にはトトメス3世の祝祭殿があります。この祝祭殿の東側がアメン大神殿を囲む外壁の東側の入口になっています。今では失われていますが東側の入口に大きなオベリスクが3本かつては建てられていました。
 Google mapのアメン大神殿の場所を拡大していくと非常に面白いことに気付きます。現在の神殿の遺構の地図ではなくて、そのかわりに壁は崩れておらず屋根も付いている古代の神殿の復元図が描かれているのです。実は右上の地図のマーカーは現存するトトメス1世のオベリスクの位置になっているのですが、地図を拡大していくと今は台座だけになっているもう片方のオベリスクも描かれているのが分かります。さらにハトシェプスト女王のオベリスクは倒れた分も含めて2本揃って立っています。また注意深く見てみるとトトメス1世の対のオベリスクの東側に小型の対のオベリスクがあります。地図の右側の、大神殿の東側の外壁の外には3本の大型のオベリスクが描かれています。さらに東側のカルナック神殿複合体の外壁の外側にも小さな1対のオベリスクが描かれています。
 カルナックの神殿複合体の入口には入場券売場のある大きな建物があり、その中にはアメン大神殿の大型の復元模型(写真:別ページのリンク)があります。Google mapの復元図と同じように神殿内に6本、神殿の東側に3本のオベリスクがあります。この他、UCLAの(Digital Karnakというウェブサイトでは古代のアメン大神殿がCGによる復元図と共に分かりやすく紹介されていますが、このサイトでもGoogle mapと同様に神殿内に6本、神殿の東側に5本のオベリスクが描かれています。さらに南側の第7塔門にも1対のオベリスクが記載されています。
 復元図の東側に立っている3本の大きなオベリスクのうち、中央のオベリスクは、トトメス3世が作り始め、トトメス4世が完成させた、現存するオベリスクでは世界最大のラテラン・オベリスクです。2本一組ではなく1本だけ単独で建てられている点が特徴です。
karnak_hatshepsut_fallen.jpg  3本のうちの残りの2本はハトシェプスト女王が建てたオベリスクであることが分かっています。このオベリスクはハトシェプスト女王の死後にトトメス3世によってハトシェプスト女王の名前が削り取られました。2本とも現在は壊れていますが、先端のピラミディオンの部分は残っていて、片方はカイロ博物館の玄関脇に置かれています。もう片方もカルナックに残っているようですが筆者は確認できていません。なお、Google mapの復元図やDigital Karnakに載っている外壁の東側の2本のオベリスクは、ラムセス2世が建てたものですが、2本とも現在は壊れています。
 一方、トトメス3世のオベリスクは前述のラテラン・オベリスクの他に2組のオベリスクの存在が確認されています。1対はDigital Karnakに載っている第7塔門の南側に建てられたものです。このうちの片方は現在はイスタンブールのヒッポドローム跡地に立っています。もう片方は破片が残っているだけのようです。他の1対はGoogle mapの復元図でトトメス1世の対のオベリスクの東側に描かれている小型のオベリスクですが、現在は2本共に壊れて、破片によって存在が確認されているだけです。
 また、ルクソール美術館に展示されているラムセス3世の小型のオベリスクもカルナックで発見されたものです。美術館の説明には明記されていませんが、第8塔門のさらに南側にある第9塔門と第10塔門の間の中庭の西側で1923年に発見されたものです。(「カイロ・エジプト博物館ルクソール美術館への招待」松本 弥著による)

オベリスクについて: アメン大神殿には約20本のオベリスクが建てられたことが文献や考古学的調査によって知られていますが、多くは壊れてしまっていて、3本は他の場所に移設されています。このため現在も立った形でアメン大神殿内に残っているオベリスクは以下の3本です。

●セティ2世のオベリスク 第19王朝のセティ2世(在位BC1199~1193)が建てたオベリスクです。アメン大神殿の入場ゲートを入ってすぐの所に右側(南側)だけが残っています。高さは2.5mですが、柱身は太く各面共に4行の碑文が彫られています。赤色砂岩製のオベリスクで保存状態はあまり良くなく、欠損部分を修復した形跡があります。南面が比較的に保存状態が良いですが、係員の許可を取って南側に行かないと写真が撮影できません。
 不思議なことに、このオベリスクは多くの書籍やウェブサイトで無視されています。アメン大神殿の入場ホールにある大型の復元模型ではきちんと復元されていましたが、Google mapやUCLAのサイトには記載されていません。特にUCLAのサイトでは多くの失われたオベリスクも紹介されているのに、現存するこのオベリスクが無視されています。アメン大神殿の西側の入口はスフィンクスがならぶ参道から描かれており、セティ2世のオベリスクは故意に抹消されたかのように省かれているのです。

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西面

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南面

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東面

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北面
2014年8月8日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)


トトメス1世の倒壊したオベリスク

トトメス1世の倒壊したオベリスクの断片

●トトメス1世のオベリスク 第18王朝のトトメス1世(在位BC1524~1518)のオベリスクで台座を含む高さは21.8mです。第3塔門と第4塔門の間に右側(南側)だけが残っています。オベリスクの東面と西面は狭いスペースしかなく、根元に障害物があるため真正面は見にくいのですが、南面と北面は全体がよく見えます。特に南面は保存状態が良好で、碑文が鮮明に残っています。
 トトメス1世がこのオベリスクを建てた時には、碑文は中央の1行だけだったのですが、第20王朝のラムセス4世(在位BC1151~1145)の時代に左右の碑文が付け加えられて、現在は3行の碑文になっています。
 中央の碑文のヒエログリフは惚れ惚れするほど美しい書体で、あたかも明朝体の活字のように完成された端正な様式美を持っています。書体の美しさではヘリオポリスのセンウセレト1世のオベリスクと1、2を争うものではないかと筆者は考えています。
 なお、岡本さんから、このオベリスクは傾いているらしいと教えていただきました。たしかに建物とか、北面の写真に写っているクレーンの鉄塔などを手がかりにして写真の角度を補正すると、かなり傾いていることがわかりました。東面の写真ではオベリスクが太く見えますが、下部の障害物を避けるために通路側から少し斜めに撮影したためです。
 トトメス1世のオベリスクは現在は右側だけが残っていますが、倒壊した左側のオベリスクの断片が現存するトトメス1世のオベリスクの下に置かれています。南側から撮影した写真の台座の左側に見える円柱状の岩がそれです。現存するオベリスクと同一の表記法によるトトメス1世の誕生名が残っています。

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西面

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南面

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東面

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北面
2014年8月8日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●ハトシェプスト女王のオベリスク 元々は第18王朝のトトメス2世が作り始めたオベリスクなのですが、トトメス2世の生存中には完成せず、妻のハトシェプストが息子のトトメス3世の王権を実質的に奪って即位した後(在位BC1498~1483)に、アメン神殿に運んで建てたものです。第4塔門と第5塔門の間に左側だけが残っています。このオベリスクは中央に1行の碑文があり、その左右にはハトシェプスト女王とトトメス3世がアメン神に貢物を捧げる図が描かれています。オベリスクの構図としては独特なものです。
 今ではかなり崩されていますが、周囲にはオベリスクを隠すためにトトメス3世が築いた壁が残っています。この壁のため、西面と東面はオベリスクの真下には行けず、南西あるいは南東からの写真しか撮影できませんでした。このオベリスクは長らくトトメス3世の壁によって途中までが隠されていましたので、露出していた頂上部と壁で覆われていた中央部以下では風化の度合いが異なっていて、特に北面はオベリスクの色が途中で変わっているのが明瞭に分かります。高さは台座を含めると30.4mで、アメン大神殿に現存するオベリスクの中では最大のものです。
 壁で囲まれただけではなく、北面のハトシェプスト女王の即位名は石が削られて消されています。しかし、かすかに痕跡が残っているので消された名前がハトシェプストであることが分かります。ただし、北面も最上部のハトシェプスト女王のホルス名は消されずに残っていますし、他の面の女王名は消されていません。

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南面

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南西面

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北面

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南東面
2014年8月8日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

撮影メモ: 2008年に訪れた時には多くの観光客で混み合っていたアメン大神殿ですが、2014年に再訪したときには団体観光客は1組しか来ておらず、他にはガイドを雇った欧米と日本の個人旅行者が数組居るだけの閑散とした状態でした。掲載してある写真はいずれも真昼に撮影したものですので、いかに観光客が少ないかが実感できると思います。写真をゆっくりと落ち着いて撮ることができて好都合でしたが、革命後のエジプトの観光客の激減ぶりは想像以上でした。


共同著作・編集: 長瀬博之 nag2jp@ gmail.com、岡本正二 shoji_okamoto31@yahoo.co.jp

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