クレオパトラの針 (ロンドン)
オベリスク全リストへ戻る

大きな地図で見る          tube.gifは地下鉄駅を表す記号です

現在地:  ロンドン、ビクトリア・エンバンクメント
北緯
51°30′30.5″(51.508471) 東経0°07′13.2″(-0.120335)
創建王:  トトメス3世(新王国第18王朝、在位 紀元前15世紀)
高さ:  20.87 メートル
重さ:  推定 180~200 トン
石材:  赤色花崗岩

場所について: オベリスクはロンドン、テムズ川の川岸で「ビクトリア・エンバンクメント」と呼ばれているところに立っています。有名な「ビッグベン(エリザベスタワー)」の約1キロ下流、左岸です。
 「ビクトリア・エンバンクメント」という呼び名はビクトリア朝の 1860年代に堤が整備されたことに由来します。ビクトリア・エンバンクメント自体はビッグベン(エリザベスタワー)のある国会議事堂の北側からテンプル駅の先まで約2キロ続いており、本来はオベリスクのある地域だけを指す地名ではありません。ただ、オベリスクのある辺りにはビクトリア・エンバンクメント公園がありますし、テムズ川の水上バスのエンバンクメント埠頭もあるので、この辺をイメージする人は多いでしょう。  
ゴールデン・ジュビリー橋から見たクレオパトラの針ゴールデン・ジュビリー橋から見たところ
テムズ河畔に突き出た敷地に立っています


行き方: 最寄りの公共交通機関は地下鉄のサークル線・ディストリクト線・ベーカールー線・ノーザン線が通るエンバンクメント駅です。テムズ川沿いの道路に出て300m弱のところ、道路(車道)の向こう側にあります。木が茂っているので近づくまでオベリスクは見えませんが、川沿いに高くそびえていますのですぐわかります。テムズ河畔に、川に突き出る形で敷地が作られ、そこに黒いスフィンクス像に守られてオベリスクが立つています。
  なお、エンバンクメント駅の隣にビクトリア・エンバンクメント公園という公園がありますが、オベリスクは公園の中ではありません。エンバンクメント駅の出口によっては目の前に公園があるので、公園の中に入ってしまいがちですが、公園の中からはオベリスクを見つけにくく、探し回る羽目になりかねません。エンバンクメント公園には入らずにテームズ川沿いの道路に出れば、オベリスクはすぐ見つけられます。
 筆者が訪れた2014年8月には、ベーカールー線とノーザン線のホームがリニューアルの工事のために閉鎖され、列車は通過していました。2014年の11月には工事が終わり再開される予定です。

オベリスクについて: このオベリスクはもともと紀元前15世紀にヘリオポリスに立てられ、紀元前1世紀にアレキサンドリアに移築され、14世紀に地震で倒れ、19世紀にロンドンに運ばれたという経歴があります。具体的には以下のとおりです。
 新王国時代のトトメス3世(在位 BC 1504-1450年)が、ヘリオポリスの太陽神殿に奉納するため、オベリスクを2本ペアで作らせました。当時の記録よりますと、ヤネムジェという官吏が建設を担当し、トトメス3世の3度目の即位記念祭の時に太陽神殿に奉納されたものだということですす。
 その後、アレキサンドリアに建設されたカエサルを祭る神殿の装飾として、紀元前 10年頃、2本揃ってヘリオポリスからアレキサンドリアに移築されました。
 そして 1303年に起きた地震で2本のうち1本が倒れ、再建されずに放置されていました。
 1801年、アブキールの戦いでフランス軍に勝利した英国軍は戦利品を得ようとします。有名なロゼッタ・ストーンが英国の手に渡ったのはこのときですが、アレキサンドリアに駐在していた英国軍のキャバン伯爵(Lord Cavan)は同地に倒れていた上記のオベリスクも得ようとし、許可も得たのですが、実際アレキサンドリアから搬出されたのは 1877年。ロンドンの現在の場所に建てられたのは1878年でした。
 搬出までに長い年月を要した一番の問題は運搬費のでしたが、オベリスクの保存状態があまり良くなかったことも搬出が遅れた一因でした。オベリスクの保存状態については、下記の「オベリスクの現状」をご覧ください。
 なお、1303年の地震で倒れなかったアレキサンドリアのもう1本のオベリスクは、いまはニューヨークのセントラルパークにあります。詳しくはこちらをご覧ください。

ロンドンへの搬送: 1819年、当時エジプトを支配していたトルコのエジプト総督ムハンマド・アリ(Muhammad Ali)はこのオベリスクを英国に贈呈してもよいと承認し、1831年にも再確認されましたが、英国政府が運搬費の負担を渋り搬出計画は棚上げされました。1870年代になってジェームス・アレキサンダー将軍(Major-General Sir James Edward Alexander)という人物が精力的に動きだし、エラスムス・ウイルソン卿(Sir Erasmus Wilson)が運搬費の援助を申し出、いよいよ搬出かと思われた矢先、オベリスクが転がっていた土地の所有者から横やりが入り、また遅れました。
 技術者のジョン・ディクソンが特製の円筒形のコンテナ「クレオパトラ号」を作り、オベリスクをそこに納め、母船「オルガ号」がそれを曳くという方式で運搬することになりました。アレキサンドリア港を出たのは1877年9月21日。アブキールの戦いから80年近くが経過していました。
 その間には、フランスがカルナックにあったオベリスクの搬出に成功しています。そのオベリスクはいまパリのコンコルド広場にあります。詳しくはこちらをご覧ください。
 ジブラルタル海峡を抜けて大西洋から英国に向かった「オルガ号」と「クレオパトラ号」ですが、ビスケー湾(フランスではガスコーニュ湾という)を航行中の10月14日嵐に遭遇します。「クレオパトラ号」を繋いでいたロープが切れて漂流し、母船が「クレオパトラ号」を確保しようとしている間に6人の船員が行方不明になりました。危うく海底に沈むところだった「クレオパトラ号」は英国グラスゴーの蒸気船「フィッツモリス号」に助けられ、一旦スペイン北西部のエルフェロールという港まで曳航されました。船主は自分のものだと主張して紛糾し、結局オベリスクを買い戻して難を逃れました。
 「クレオパトラ号」はこんどは蒸気船「アングリア号」に曳かれて1878年1月15日エルフェロール港を発ち、同月21日にやっとテムズ河口のグレーブセンドに到着しました。アレキサンドリア出港までに約80年、さらにアレキサンドリアからイギリスまで4カ月という波乱の長旅でした。
 船はさらにテムズ河をさかのぼり議事堂近くに停泊し、その8カ月後の1878年9月12日(13日?)にオベリスクは現在地のテムズ河畔、ビクトリア・エンバンクメントの台座の上に立てられたのです。
 オベリスクは下が欠けていて座りがわるく、鉄の装飾で支えられました。また、台座の中には当時の新聞や大英帝国のコインセットなどの記念品が納められました。

ニックネームについて: このオベリスクはクレオパトラの針(Cleopatra's Needle)という愛称で呼ばれています。こう呼ばれるオベリスクは、このオベリスクの他に、ニューヨークのセントラルパークと、パリのコンコルド広場にもあります。しかしながら、クレオパトラの針という名前の由来ははっきりとは分かっていません。3本共、有名なクレオパトラ女王(クレオパトラ7世)とは関係ありませんので、不適切な命名ですが、欧米では広くこの名前で知られています。このページのタイトルも「クレオパトラの針」としてあります。

オベリスクの現状と碑文: ロンドンへの搬出が遅れた一因がオベリスクの保存状態があまり良くなかったことだと上で述べました。確かにオベリスクは風化が進んでいて、碑文が彫られている面も角が減って丸みを帯びています。ヒエログリフは深彫りされていますので、判読できないほどではないのですが、確かに荒れた感じは否めません。碑文は各面3行ですがトトメス3世のオリジナルの碑文は中央の行だけで、左右の行は約 250年後にラムセス2世が付け加えたものです。中央のトトメス3世の碑文にはホルス名、即位名、誕生名が読めますが、ホルス名は4面で異なった表記法が採られています。
 塔頂のピラミディオンの各面には,ヘリオポリスの神々に供物をささげるスフィンクスの姿をしたトトメス3世の図像が描かれています。
 オベリスクには黒いブロンズ製のスフィンクス像2体がが添えられています。第一次世界大戦中の1917年、ドイツ空軍の空襲で土台とスフィンクス像は損傷を受け、いまもその傷痕が残っています。

撮影メモ: このオベリスクはテムズ川の河畔に立っているのと、周囲に木が植えられているために、撮影にはかなり苦労しました。西面はどうしても木の葉が写り込んでしまいましたし、川が湾曲している場所であることから、南北の面を撮ろうとすると、できる限り川に近づかなければなりません。このため南面と北面の写真は水上バスなどの桟橋に入って撮影しました。また東面はゴールデン・ジュビリー橋を渡って、テームズ川の対岸から 200mmの望遠レンズで撮影しています。 

embankment_west.jpg
西面

embankment_south.jpg
南面

embankment_east.jpg
東面

embankment_north.jpg
北面

2014年8月1日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

共同著作・編集: 長瀬博之 nag2jp@ gmail.com、岡本正二 shoji_okamoto31@yahoo.co.jp

inserted by FC2 system