タニス遺跡のオベリスク オベリスク全リストへ戻る

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現在地:  エジプト、サン・エル・ハガル
北緯
30°58′39.8″(30.977714) 東経31°52′51.4″(31.880932)

行き方: タニスの遺跡は現在のサン・エル・ハガルという町の外れにあります。カイロの北東約140kmのナイルデルタにある町です。小さな町ですのでカイロからバスを乗り継いで行くのも難しく、現地の旅行社の車をチャーターして行くのが現実的な方法です。カイロ市内のタクシーでは場所が分からず無理でしょう。
 また、タニスは著名な古代遺跡なのですが、観光客が激減している現状では、タニスに行く現地ツアーを定期的に開催している旅行社はありませんので、専用車を個人的に借り上げる必要があります。
 カイロからサン・エル・ハガルまでの道のりは、途中までは整備された幹線道路ですが、それでも片道2時間程度はかかります。途中で検問などがある可能性もあるので、少なくとも英語が話せるガイドをつけておく必要があります。
 かつてはエジプトは治安が良く、個人でバスや乗り合い自動車を乗り継いでサン・エル・ハガルに行くこともできましたが、現在は状況がその頃とは一変していますので、無謀な個人行動は控えるべきでしょう。なお、サン・エル・ハガルのあるナイルデルタ地域は、2015年夏の時点では外務省によって「渡航の是非を検討してください」の地域に指定されています。
 遺跡の入口にはバラックのチケット売場があります。いくらエジプトでもさすがにここまでひどい事例は珍しいのですが、現在では観光客がほとんどいないので、このチケット売場も使われていません。遺跡の管理事務所自体はコンクリート製のきちんとした建物なのですが、事務所は目立たないので、看板の代わりに建てられているようです。

タニス遺跡のチケット売場
タニスの遺跡のチケット売場
傾いた地面に建てられている


場所について: タニスの歴史は古く下エジプト第14ノモスの州都でした。第3中間期の第21王朝には首都となった街です。ラムセス2世の王名が刻まれた石材が多数残っているため、以前はここが第19王朝のラムセス2世が築いた新王都であるペル・ラムセス(ピ・ラムセス、Pi-Ramsesとも言われる)だと考えられていました。しかし考古学的な調査によって、大量の石材は第20王朝の末期以降にペル・ラムセスから運び出されたもので、実際のペル・ラムセスはタニスの遺跡の南方約30kmのQantirという町の付近と現在では考えられています。


オソルコン2世の円柱

第22王朝のオソルコン2世の
名前が彫られた円柱の断片

 ペル・ラムセスは、紀元前17世紀にエジプトに侵入したヒクソスが築いたアヴァリスの街が元になっていて、新王国時代のセティ1世の頃に建設が始まりました。大規模な建設工事が行われたのは紀元前13世紀のラムセス2世の治世下の時で、最盛期には王都が置かれました。米国の政治学者のジョージ・モデルスキー(George Modelski)はWorld Cities: -3000 to 2000という著作の中で、ペル・ラムセスの人口を16万人と推定していますが、当時としては世界最大の都市です。
 また、ペル・ラムセスは旧約聖書の出エジプト記の舞台として知られています。モーセはこの街で育ったとされており、ペル・ラムセスの街で働いていたユダヤ人が、この街を出てシナイ山を経て、約束の地カナンに向かったのが出エジプト記のテーマです。
 タニスの遺跡は19世紀に発見され、1929年以降には、レバノンのビブロスの発掘にも従事したフランス人考古学者のピエール・モンテが、10年以上に及ぶ大規模な発掘調査を行って全貌が明らかになりました。しかしタニスの遺跡で発掘された石材にはラムセス2世の名前が書かれていても、遺跡で発掘された遺物は第21王朝のプスセンネス王などのもので、ペル・ラムセスを想起させるものではありませんでした。1960年代以降のエジプト考古学の進展によって、ペル・ラムセスとタニスの遺跡は別の場所であることが定説となりました。
 タニスの出土品は紀元前11世紀のエジプト第3中間期の第21王朝以降のもので占められており、第23王朝までは首都となっていました。ただし第3中間期には上エジプトには別の王朝があり、エジプトは統一王国ではありませんでした。
 現在のタニスの遺跡は約1km四方の砂漠のような状態になっています。周辺の土地は畑になっていますが、遺跡の範囲だけが砂地のままです。Google Mapの衛星画像で見るとその違いが明確に分かります。
 タニスの遺跡はアメン大神殿と、ムト神殿、コンス神殿が中心的な建物で、第21王朝と第22王朝のファラオの王墓も神殿の敷地内で発見されています。このうちアメン大神殿は全長が約400mの大規模なもので、タニスの遺跡の中央部を東に向かってのびています。遺跡の参観コースのメインルートもアメン大神殿の奥に進むように作られています。


タニス遺跡

タニスの遺跡を入口の管理事務所付近から撮影。右側が奥になる。
写真中央や右側に倒れたオベリスクなどが見える

 また、タニスの遺跡は衛星写真を見るとアメン大神殿の遺構が分かるのですが、現地では砂漠のような砂地が広がっているだけのように見えて、遺構がはっきりとはわかりません。一番奥の聖なる池の周囲を囲んでいた日干し煉瓦の壁や、井戸の跡などは分かるのですが、神殿の跡は石柱の礎石も無いので列柱を想像することもできません。巨大な石材は確かに残ってはいるのですが、大神殿が建っていた割には、残って放置されているのは少ないような気もします。転がっている石材の多くは元にあった場所ではなく、片付けられて寄せ集められているようで、このために遺跡の全体像が分かりにくくなっているのと、大半の石材がさらに別の場所の神殿などに再利用されるために運び出されてしまったか、あるいは埋まったままになっているのかもしれません。
 ショシェンク3世の王墓は石棺や墓室の壁面のレリーフなどを見ることができますが、地面に穴が掘られて墓室が発掘されたままの状態になっています。また、この墓室の周囲には朽ち果てた鉄パイプの枠組みが残っているのですが、かつては日よけの天幕でも張られていたのでしょうか。
 オベリスクは横倒しになったままのもの、最上部だけが地面に立てられて置かれているものなどさまざまで、オベリスクの墓場のような様相を呈しています。横倒しになっている方がむしろ自然で、最上部だけが立てられて展示されていても、周囲にそれと繋がっていたと思われる柱の部分が見つからない場合もあります。展示されているというよりも、発掘工事の際に片付けられた石材が一ヶ所にまとめられて残っているという印象を受けました。

オベリスクについて: このサイトでは立って置かれているオベリスクを主に紹介していますが、タニスの遺跡に関しては横たわったままのオベリスクの方がスケールも大きく見ごたえがあります。タニスの倒れたオベリスクについては別のページを設けておりますので興味があればそちらもご覧いただければと存じます。
 2014年の8月にタニスを訪れた際に、ピラミディオン部分が確認できたオベリスクの断片は8本あります。このうち大型の4本は倒れたままになっていて、立って置かれているものが4本あります。また1本は先端部分が見当たりませんが修復されて立っています。ラビブ・ハバシュの「エジプトのオベリスク」によれば、タニスではオベリスクの破片が23個発見され、このうち22個にはラムセス2世の名前があったようです。(注記:現地で見た断片の数自体は23個よりもはるかに多かったので、王名が確認できた物が23個という意味だと思います。)
 また同書によれば、タニスの神殿には5組のオベリスクが建てられたと記載されていますので、10本立っていたことになります。カイロのゲジーラ島に修復されている1本と、エジプト博物館の前庭に立っている先端部分はタニスの遺跡から運ばれたもので、ピラミディオン部分の図柄が酷似していることから、おそらくペアの1組であろうと筆者は考えています。また、カイロ空港前に立っているオベリスクもタニスから運ばれたものなので、カイロには合計3本のオベリスクが搬出されたことになります。筆者はピラミディオン部分の断片を8本分現地で見ていますので、ハバシュの書いている5組では説明が付かず、ハバシュの記述を全面的に受けいれることはできないと考えています。なお、筆者がタニスで見たオベリスクはラムセス2世の名前が刻まれたものばかりでしたので、王名でオベリスクを特定することができません。このため、ここでは便宜的に番号を付けて記述することにします。

タニス遺跡
南西方向から撮影したタニスの遺跡のオベリスク群 番号は下記の説明のために付定

●オベリスク(1)
 アメン大神殿の入口付近のショシェンク3世の王墓の近くに立っているラムセス2世のオベリスクです。現状の高さは約3mです。二つに分かれていたものを繋ぎ合わせて修復されて立てられていますが、碑文を見るとホルス名の下部から始まっており、ピラミディオンと本体の上端が失われていることが分かります。また下部も失われているので、元々建てられた時の高さは6m前後ではなかったかと思われます。ラムセス2世の即位名と誕生名を読むことができますが、他のオベリスクではあまり見かけない礫岩のような石材で作られており、風化が進んでいて保存状態はあまりよくありません。なお、このオベリスクの他の断片らしき岩は付近には見当たりませんでした。

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西面

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北面

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東面

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南面
2014年8月5日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●オベリスク(2)
 神殿の奥(東側)に向かって見た時にオベリスク(1)の左側には二つに割れて倒れている大型のオベリスクがありますが、その傍には先端部のみが立てらているオベリスクがあります。二つに割れて倒れているオベリスクとペアのものと思われます。ピラミディオンの先端部は失われており、下側はラムセス2世の即位名の途中で切れています。西面は非常にきれいに残っており、碑文も細部に至るまでくっきりと残っています。ところが西面は損傷がひどく、隅が大きく欠損しています。砂地の上に置かれているだけの状態で修復は行われていません。周囲にはこのオベリスクの下部と思われる断片が散在しています。

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西面

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南面

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東面

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北面
2014年8月5日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●オベリスク(3)(4)
 ショシェンク3世の王墓の東側には多くのラムセス2世のオベリスクの破片が集められているところがあります。これらはそのうちの2本で、おそらくペアと思われるオベリスクの先端部が置かれています。周辺にはこれらのオベリスクの下部の断片と思われる部分が集められていて、横倒しのまま、あるいは立てられて展示されています。2本の先端部のうちの一つは断片を繋ぎ合わせて修復した跡があり、一応コンクリート製の台の上に置かれていますので、単に放置されている感じではありません。碑文は横倒しになっている本体部の方が明瞭ですが、ラムセス2世の即位名などが読めます。

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東側より周辺全体を撮影

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2本のオベリスクの拡大写真
2014年8月5日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●オベリスク(5)
 オベリスクの断片が集められた一画には、碑文が2行のオベリスクが置かれていました。これ以外のタニスにある他のオベリスクは、すべて碑文は中央部に1行だけのものです。本体部はラムセス2世のホルス名が書かれた上部の断片が残っているのですが、不思議なことにそれよりも下側の石材は見当たりませんでした。まだ埋まったままになっているのかもしれません。
 また、このオベリスクとペアと思われる碑文が2行のオベリスクの先端部分が、半分欠けた状態で砂地の上に置かれていました。半分に縦に割れてしまっていますが表面の状態は良く、碑文が細かいところまで残っています。また先端部は凹字型に加工されているのが良く分かります。おそらく頂上部には金属製の部品がはめ込まれていたのではないかと思います。

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先端部分

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即位名の部分

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ペアと思われるオベリスク
2014年8月5日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●石柱あるいはオベリスク(6)
 オベリスクの断片が集められた一画の最も奥(東側)には、2mほどの高さの石柱が立っています。上側が若干細くなっているのでオベリスクのようにも思われますが、様々な神々が参拝する様子が線刻で描かれていて、通常のオベリスクの構図とはまったく異なっています。オベリスクではなく石柱なのではないかと思いますが、筆者には判然としません。似たような図柄の他の石材は見当たらず、この1本だけでした。カルナックのアメン大神殿のハトシェプスト女王の上部には、中央の1行の碑文の左右に神々に貢物をするハトシェプスト女王やトトメス3世が描かれていますが、あの碑文を連想させるものです。
 また、この石材の足元には2行の王名が彫られた石材が置かれていました。この石柱の上側に繋がっていた部分かもしれませんが詳細は分かりません。石材に描かれている王名はラムセス2世です。
 ラビブ・ハバシュの「エジプトのオベリスク」によれば、タニスのオベリスクは5組と記載されていますので、これはオベリスクにはカウントされていないものと考えられます。

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全体の写真

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碑文の拡大写真

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上側部分?
2014年8月5日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●オベリスク(7)
 アメン大神殿の最も奥の方の、聖なる池の近くにラムセス2世の2本の大型のオベリスクが倒れて横たわっているところがあります。そのうちの1本はピラミディオン部分だけが砂地に置かれています。すぐ横にはオベリスクの本体部分が倒れていますが、ホルス名が彫られていると見られる石材は見当たりませんでした。また聖なる池の近くには、このオベリスクとペアと見られるものが倒れていますが、こちらにはピラミディオン部分も残っています。

tanis7_1.jpg
全体の写真

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ピラミディオンの拡大写真

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ペアの倒れているオベリスク
2014年8月5日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

撮影メモ: タニスはカイロからは専用車で来るしかないため、革命前の観光客で賑わっていた時でも、ここまで足を伸ばす観光客は少なかったようですが、現在ではほとんどここを訪れる観光客はいなくて、当日も筆者とガイド以外には誰も他の観光客は居ませんでした。タニスの遺跡は広大で無人の砂漠のような風景であるため、大きな石材が転がっている様子は野趣にはあふれていました。オベリスク・ファンなら訪れる価値はあると思います。


共同著作・編集: 長瀬博之 nag2jp@ gmail.com、岡本正二 shoji_okamoto31@yahoo.co.jp

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