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第5話 聚楽第 の濠の幅は40メートル

聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)は安土桃山時代に当時の最高権力者豊臣秀吉(とよとみひでよし)が京都に建てた邸宅(居城)兼政庁です。
竣工8年後以降、痕跡を留めないよう完全に取り壊されてしまいましたので、地上には何一つ残っていません。従って遺構は数少なく、また記録も少ないのでどんなものだったのかは想像するしかないのが実情です。


幅がとても広かった聚楽第の濠

1990年(平成2年)、ハローワーク西陣の建て替え工事に伴う発掘調査で聚楽第の東濠の遺構が見つかりました。
聚楽第の濠の遺構が見つかったのは初めてでした。

そのときの発掘調査で東濠の幅は40メートルと推定されました。(なお、濠の深さは地表面から深さと8.4メートルと推定)
幅は40メートルというのはかなり広いです。
現存する日本のお城の中で、江戸城、すなわち皇居の日比谷濠の幅は80メートルあります。
さすが天下の江戸幕府の本拠地だけあって雄大です。

いまの皇居日比谷濠
いまの皇居日比谷濠(2016.1.28 撮影)

それから姫路城内濠(南側)の幅は37〜50メートルあります。
姫路城は城主がよく変わっていて、だれの時代にこの濠の幅になったか不明ですが、黒田官兵衛や羽柴秀吉(豊臣秀吉)が城主だった時期もありますので、何等かの関与があったかもわかりません。

いまの姫路城内濠
いまの姫路城内濠、大手門にかかる桜門橋から見たところ(2016.2.9 撮影)

また広島城内濠の幅も40メートあります。

いまの広島城東濠
いまの広島城内濠(東濠)

聚楽第が竣工したのが1587年(天正15年)9月。
翌1588年(天正16年)7月、広島藩主毛利輝元は豊臣秀吉に招かれて京都に来ます。
そのときに大阪城や聚楽第を訪れて感心し、地元安芸の国(広島)に新しい城を造ることを決意したと言われています。
広島城の縄張り(平面図の設計)は秀吉の側近である黒田官兵衛が行ったので聚楽第に似ているとも考えられます。



著作・編集: 聚楽第(じゅらくてい)をもっと知ってもらう会・岡本正二
E-mail: shoji_okamoto31@yahoo.co.jp

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