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第4話 聚楽第 の形容表現

聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)は安土桃山時代に当時の最高権力者豊臣秀吉(とよとみひでよし)が京都に建てた邸宅(居城)兼政庁です。
竣工8年後以降、痕跡を留めないよう完全に取り壊されてしまいましたので、地上には何一つ残っていません。従って遺構は数少なく、また記録も少ないのでどんなものだったのかは想像するしかないのが実情です。


聚楽第を語るとき、色んな表現がみられます。

まず機能面からみると、政治を行う「政庁」であり、自分の「屋敷(邸宅)」であり、天皇をお迎えする「迎賓館」であり、これらが一体となったコンプレックス(複合物)と言えるでしょう。

一方、見た目(形・外観)からすれば濠と石垣があるので「城(城郭)」と言う表現もあります。

ちなみに世間では聚楽第をどのように表現しているか調べてみました。

形容そのように形容されている原典 (クリックすると原典が別のウインドウで開きます)
公邸◆ 『日本史大事典』第三巻(平凡社、1993年5月初版発行)
政庁◆ 聚楽第 豊臣家の夢の跡 「聚楽第について」 (真田勘兵衛)
◆ 『日本の名城・古城事典』(TBSブリタニカ、1989年3月初版発行)
平城で政庁兼邸宅ウィキペディア日本語版
邸宅◆ 京都市歴史資料館:解説シート「都市史18」 聚楽第と御土居
大豪邸はてなキーワード 聚楽第
lavish palace
(ぜいたくな、必要以上に豪華な  宮殿)
Wikipedia, the free encyclopedia(ただし、英語のサイトです)
城郭形式の邸館◆ 月刊京都史跡散策会 第7号(2006/7/16発行)
城郭様式の豪邸◆ 『国史大辞典』第七巻(吉川弘文館、1986年11月初版発行)
城郭風の邸宅京都市観光文化情報システム
◆ 洛雅記 秀吉の聚楽第 平安京遺構探訪ウォーキング
京都における迎賓館としての城郭◆ 奥平俊六(監修)『桃山時代の美術』(東京美術、2009年8月初版発行)成澤勝嗣執筆
城館◆ 同志社大学:上京歴史探訪館 「京都上京さんぽ」安土桃山時代
◆ 中村武生氏: 「城」の定義は攻撃施設があるかどうかです。聚楽第屏風には鉄砲を突き出す口があるので「城」です。
  京都新聞2009年4月3日付け朝刊19ページ「中村武生さんとあるく洛中洛外・上京区@」(文・佐藤知幸記者)

聚楽第の呼び名について:

「聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)」か「聚楽城(じゅらくじょう)」か:

聚楽第は堀(石垣)に囲まれた曲輪(くるわ)の形式でしたので見た目には『城』のようでした。『城』はもともと軍事基地として作られたものですが、次第に恒久的な統治拠点あるいは領主の権威と権力の象徴となり、軍事的性格は無くなりました。後には町の中心に位置すること、天守閣が遠方からでもよく見えてカッコいいことから地域の象徴となったケースが多いです。
聚楽第は政庁(行政の中心)・屋敷(住居)・迎賓館(ゲストハウス)として作られましたが、上記のような状況を考えますと『城』と呼んでも間違いではないと思います。
「聚楽第」か「聚楽城」か、現存する6基の石碑では3:3で互角です。こちらでまとめてみました。

「じゅらくてい」か「じゅらくだい」か:

「第」という漢字は「てい」という読み方があり「亭(邸)」に通じますので、最近は「じゅらくてい」という呼び方が主流になっているようです。



著作・編集: 聚楽第(じゅらくてい)をもっと知ってもらう会・岡本正二
E-mail: shoji_okamoto31@yahoo.co.jp

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